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赤松円心(あかまつ えんしん)

Category: 南北武将

概要

所属  : 赤松家 北朝

没年齢 : 73 (1277 – 1350)

①六波羅との戦い

播磨佐用の御家人、赤松茂則の子として産まれた赤松円心は、六波羅探題に仕え、元弘の乱で楠木正成が挙兵すると六波羅探題の命により正成追討の兵を出すも、その約一月後、円心も天皇方に呼応し挙兵する(1333.1)。円心は幕府に内通しようとする家臣の高田氏を討ち、続いて備前から追討に来た伊東氏を三石城で破り服従させて上洛を開始。摩耶山城に入った円心は六角時信らの六波羅探題軍を破り(1333.2)摂津尼崎に陣を進め、瀬川合戦で阿波から追討に来た小笠原氏に敗れるも、三男の赤松則祐の進言により摂津瀬川に陣を敷く六波羅探題軍を夜襲して撃破する(1333.3)。円心は山城山﨑に陣を進め桂川で六波羅軍を再度撃破し六波羅まで進軍するも、光厳天皇を六波羅に迎えて勢いを盛り返した六波羅軍に敗れ八幡男山に退却する。その後、二度にわたって六波羅攻略を試みるも失敗(1333.4)。幕府により追討軍として上洛した足利尊氏名越高家が円心を討伐のため出陣すると、円心は家臣の佐用範家に京都伏見で待ち伏せさせ、先行して進軍してきた高家を久我畷の戦いで討ち取る(1333.4)。

②尊氏の下で

その後、尊氏は丹波篠村に退却すると、突如幕府軍から天皇軍へ寝返り京都の六波羅めがけて進軍を開始する。円心は隠岐から脱出して船上山で挙兵した後醍醐天皇の側近、千種忠顕の軍と共に尊氏の軍に合流し六波羅を包囲、陥落させる(1333.5)。鎌倉幕府が滅んだ後は後醍醐天皇の建武の新政に参加するも、護良親王派の円心は後醍醐天皇派の忠顕らと比べて恩賞が不遇であり、護良親王が失脚する(1334)と円心は申請から離脱する。翌年、尊氏が中先代の乱を鎮圧に向かうと、円心は長男の赤松範資と次男の赤松貞範を尊氏の軍に従軍させる。尊氏が乱の平定後に新政から離脱すると円心は足利側として尊氏に従い、九州に落ち延びた尊氏を追討に来た新田義貞を播磨赤穂の白旗城で迎え討ち(1336.3)、尊氏が再上洛のため厳島に到着する(1336.5)までの約五十日間、義貞軍の猛攻に耐えて義貞軍を釘付けにする。尊氏が播磨に迫ると義貞は白旗城から摂津兵庫まで撤退し、尊氏が湊川の戦いで義貞、正成を破り尊氏は上洛を果たすことになる(1336.6)。

③播磨平定

尊氏が室町幕府を開くと円心は播磨守護として、子の範資は摂津守護として幕府に参加する。しかし播磨では義貞の家臣、金谷経氏が丹生山で挙兵し(1338)、円心は範資、則祐と共に反乱の鎮圧に乗り出すも、約五年間費やして播磨を平定する(1342)。観応の擾乱で尊氏が弟の足利直義と、実子で直義の養子となった足利直冬と対立すると、円心は尊氏に従い九州で勢力を高める直冬の準備を行う。しかしその最中、京都七条の邸宅で死去する(1350.1)。


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