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佐々木道誉(ささき どうよ)

Category: 南北武将

概要

所属  : 佐々木家 北朝

没年齢 : 67 (1306 – 1373)

①近江の大名

近江の御家人である京極家の佐々木宗氏の子として産まれた佐々木道誉は、叔父の佐々木貞宗の養子として佐々木家の家督を継ぐ。北条高時が第14代執権に就任すると道誉は高時に幕府の重鎮大名である相伴衆として高時に仕え、高時が出家する(1326.3)と道誉も共に出家する。後醍醐天皇が笠置山で挙兵する(1331.8)と道誉は幕府軍として従軍し後醍醐天皇が隠岐に流罪となるとその道中の護衛を務める(1332.3)。その後、帰京した道誉は後醍醐天皇に従った北畠具行を鎌倉に護送する使命を受けるも、道中の近江柏原で幕府の命を受け処刑する(1332.6)。足利尊氏が六波羅探題を滅ぼすと、鎌倉へ落ち延びる六波羅探題南方の北条時益を京都東山で、六波羅探題北方の普恩寺仲時を近江番場で討つ(1333.5)。後醍醐天皇が建武の新政を開始すると道誉は訴訟を扱う雑訴決断所の奉行となる(1333.6)。

②尊氏の盟友として

北条時行が中先代の乱を起こす(1335.7)と道誉は尊氏に従い鎌倉を攻略し、その後、尊氏と共に建武の新政からの離脱を図る。道誉は足利直義に従い追討にきた新田義貞と手越河原の戦いで戦うも敗北。道誉は義貞の傘下となる。しかし箱根竹ノ下の戦いで尊氏が義貞と戦うと道誉は尊氏に寝返り義貞を潰走させる(1336.12)。さらに尊氏に従い京都に入るも、奥州から北畠顕家が京都奪還に来ると糺河原の戦い、豊島河原の戦いに敗れ尊氏は九州に落ち延び、道誉は近江へ退却する(1336.2)。尊氏が湊川の戦い(1336.5)で楠木正成を討ち京都に入ると、道誉は信濃の小笠原貞宗と合流し後醍醐天皇が籠る比叡山を包囲。義貞との近江の戦いに勝利する(1336.9)。道誉は勝楽寺城を築き(1337)本拠とし尊氏が北朝として室町幕府を開くと道誉は幕府の要職を務める。南朝で楠木正行が勢力を盛り返すと尊氏は高師直に正行討伐を命じ、道誉も出兵。四條畷の戦いで正行を打ち破る(1348.1)。その後、尊氏が直義と対立すると道誉は播磨の赤松円心と共に尊氏に付き、直義の排除に貢献する(1351.7)。北朝と南朝が和解した正平一統が北畠親房により破棄され、親房の子、北畠顕能と正成の子、楠木正儀が尊氏の留守を預かる義詮を攻撃する。義詮が七条大宮の戦いの敗れ近江に退却する(1352.閏2)と道誉は義詮に従い京都奪還に成功(1352.3)し、八幡男山に籠った南朝軍を八幡の戦いで破る(1352.5)。その後も道誉は後光厳天皇の擁立を進言するなど北朝の強化に尽力する。

③婆娑羅大名

尊氏死去(1358.4)後は義詮に仕え、政所執事となる。道誉は幕府の権力者である執事の細川清氏を康安の政変(1360.9)で失脚させる。この後、清氏が南朝に加わり正儀と共に京都に攻め込むと、道誉は邸宅から退去時に部屋を飾り付け、酒や書画などを置いて侵入者をもてなしたと言われる(1361.12)。さらに権力者の斯波高経と管領職をめぐって対立すると貞治の政変(1366.8)で高経を失脚させる。この対立時に道誉は高経の企画した将軍義詮をもてなす御所での花見に出席の返事をしながら、同日に自身で大原野での盛大な花見を開き、高経の面目を失わせたと言われる。道誉は文化面でも教養を備えており、これらの奇行と相まって「婆娑羅大名」と呼ばれるようになる。道誉は義詮の弟で鎌倉公方の足利基氏が死去(1367.4)後に後継者を選ぶなど権力者として幕府を支える。隠居(1368)後、勝楽寺城で死去(1373.9)。


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