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毛利輝元(もうり てるもと)

Category: 戦国武将

概要

所属  : 毛利家

没年齢 : 72 (1553 – 1625)

①毛利両川体制で

毛利隆元の長男として生まれた毛利輝元は、父、隆元が急死すると祖父、毛利元就の後見の下、毛利家の当主となり、叔父の吉川元春小早川隆景の補佐を得て大内輝弘の乱や山中鹿介の尼子家再興運動に出陣し勝利を得る。織田信長足利義昭を奉じて上洛すると三好義継や浦上宗景らの勢力に対して利害の一致する信長と関係を結ぶも、元就が死去し信長と義昭の関係が悪化すると輝元は義昭を支援。本願寺顕如も加わり信長包囲網を築く。第一次木津川口の戦いで織田水軍を破るも、第二次木津川口の戦いでは九鬼嘉隆率いる鉄鋼船の前に敗北する。

②秀吉の傘下へ

輝元は中国征伐に来た織田軍の豊臣秀吉と交戦。しかし上月城の戦いで尼子勝久と鹿介、三木合戦で別所長治、備中松山城の戦いで清水宗治を失い戦局が不利となるも、信長が本能寺で討たれると秀吉と和睦し、その後は秀吉に従属することになる。秀吉の四国征伐では隆景を派遣。九州征伐にも隆景と元春を派遣するも、戦後、隆景が独立、元春も死去すると毛利両川体制は崩壊する。その後、広島城を築城して居城とする。第一次朝鮮出兵に出陣するも第二次朝鮮出兵では病のため養子の毛利秀元を出陣させる。

③関ヶ原の戦い

豊臣五大老の一員となった輝元は秀吉死去後、豊臣秀頼に仕えるも、徳川家康が勢力を拡大。毛利家の所領問題にも介入すると輝元は家康排除を狙う石田三成と輝元の家臣、安国寺恵瓊の要請を受けて西軍の総大将となる。しかし三成が挙兵後も輝元は大坂城にとどまり関ヶ原の戦いに敗北。戦後、領地は縮小され、家督を長男の毛利秀就に譲って隠居する。その後、萩城を築城。大坂の陣には秀元と秀就を参陣させる。輝元は徳川秀忠、さらに徳川家光まで仕え死去する(1625.4)。


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