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原田左之助(はらだ さのすけ)

Category: 幕末志士

概要

所属  : 伊予松山藩 新選組(十番隊組長) 甲陽鎮撫隊 靖兵隊 彰義隊

没年齢 : 28 (1840 – 1868)

①新選組の幹部へ

伊予松山藩士の子として生まれた原田左之助は、藩士時に上官の藩士と喧嘩となり煽られたため切腹を試み腹に傷を残す。その後、脱藩して大坂に移り、谷万太郎の道場で槍術を学んで槍の名手となる。その後、江戸に出た原田は天然理心流の道場、試衛館で道場主である近藤勇の食客となる。将軍徳川家茂の上洛に合わせて浪士組が募集され近藤が浪士組に加わると、原田も近藤と共に浪士組に入り上京する(1863)。その後、近藤ら京都残留組が壬生浪士組を結成すると原田もこれに参加(1863.3)。八月十八日の政変後に壬生浪士組が新選組となると原田は殿隊である十番隊の組長となる。

②京都での戦い

新選組を拝命した翌月、副長の土方歳三山南敬助、さらに幹部の沖田総司と共に新選組の芹沢派である芹沢鴨、平山五郎を暗殺する(1863.9)。さらにその十日後、真木和泉の命でスパイとして新選組に入った楠小十郎を暗殺。翌年には大坂力士との乱闘事件で力士側に加担した大阪与力の内山彦次郎を沖田、永倉新八、井上源三郎と共に暗殺する(1864.5)。翌月には池田屋事件に参加(1864.6)、さらにその翌月には禁門の変に参加する(1864.7)。三条制札事件では原田は新井忠雄らと共に土佐藩士八名と交戦し捕縛、撃退する(1866.9)。坂本龍馬中岡慎太郎が近江屋事件により暗殺される(1867.11)と、原田は伊東甲子太郎の証言により真実ではないものの暗殺の実行犯とみなされるようになる。

③戊辰戦争での戦い

戊辰戦争が勃発すると、原田は新選組として鳥羽伏見の戦いに参戦後、甲陽鎮撫隊として甲州勝沼の戦いにも参戦。しかし旧幕府軍である新選組が戦いに敗れ江戸に帰還後、その後の戦い方をめぐって近藤らと対立。原田は永倉と共に新選組を離脱して靖兵隊を結成する。しかし靖兵隊が大鳥圭介率いる旧幕府軍に合流を試みると原田は靖兵隊を離脱して江戸に戻り彰義隊に加わる。上野戦争で奮闘するも敗北(1868.5)。原田は重傷を負い二日後に死去する(1868.5)。


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