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近藤勇(こんどう いさみ)

Category: 幕末志士

概要

所属  : 新選組(局長) 江戸幕府 甲陽鎮撫隊

没年齢 : 34 (1834 – 1868)

①新選組結成

農民の宮川久次郎の三男として武蔵多摩に生まれた近藤勇は、天然理心流の試衛館に入門し(1848)、翌年、宗家の近藤周助の養子となり(1849)、天然理心流宗家の四代目となる(1861)。清河八郎徳川家茂の上洛に伴い浪士組を募集する(1863)と近藤は土方歳三ら試衛館の門弟達と共にこれに参加。しかし京都に到着した夜、清河は浪士組を尊王攘夷の隊として江戸に帰還する。近藤ら試衛館一派と芹沢鴨の一派は京都残留を決意。壬生村に滞在する。京都守護職に就いた松平容保が治安維持のため浪士を募集すると近藤は芹沢と共に容保に嘆願書を提出。会津藩預かりとして壬生浪士組が結成され近藤は芹沢、新見錦と共に局長となる。八月十八日の政変では御花畑門の警護を務め、その功から新選組の隊名を拝命。その約一月後、近藤一派は新見を切腹させ、さらに芹沢を暗殺して近藤中心の体制を整える。

②池田屋事件

政変により京都から攘夷派である長州藩が追放されるも、木戸孝允宮部鼎蔵ら攘夷派の志士たちは京都に潜伏し京都大火と天皇拉致を画策する。近藤ら新選組は長州藩士で商人に扮した古高俊太郎を捕縛しこれを知ると、その夜、近藤は隊を近藤隊と副長の土方隊に分けて探索を開始する。近藤隊が池田屋で古高奪回を計画中の志士達を発見すると、近藤は沖田総司、永倉新八、藤堂平助の四人で屋内に踏み込み戦闘を開始。途中、沖田が病で倒れ藤堂も重傷を負うと近藤と永倉は窮地となるも、土方隊が駆けつけ戦況は逆転。志士達の長である木戸は不在のため取り逃がすも宮部は自害し、新選組は攘夷派のクーデターを未然に防ぐことに成功する(1864)。翌月、長州藩が禁門の変を起こすと新選組も出動。その後、近藤は隊士募集のため帰郷し、伊東甲子太郎の一派を新選組に加える。

③御陵衛士との争い

翌年(1865)、長州征伐の訊問使として永井尚志に仕え、第二次長州征伐(1866)を経て近藤ら新選組は幕臣となる(1867)。大政奉還後、尊王攘夷のため新選組から分離した御陵衛士の隊長、伊東を暗殺。続いて伊東の亡骸を回収しに来た藤堂らを油小路で襲撃し御陵衛士を壊滅させる。しかし二月後、近藤は篠原泰之進ら御陵衛士の残党により銃撃され重傷を負い、鳥羽伏見の戦い(1868)では副長の土方が新選組を指揮する。鳥羽伏見の戦い後、江戸に退却した近藤ら新選組は幕府の支持受け新選組を甲陽鎮撫隊として甲府城に入城するため出動するも、新政府軍の板垣退助率いる迅衝隊に先を越され甲州勝沼の戦いで敗北する。近藤は下総流山で再起を図るも香川敬三率いる新政府軍に包囲され変名を用いて出頭する。しかし新政府軍に合流していた加納鷲雄ら旧御陵衛士隊士により正体が暴かれ、近藤は処刑となる(1868)。


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