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太田黒伴雄(おおたぐろ ともお)

Category: 幕末志士

概要

所属  : 熊本藩 肥後勤王党 敬神党(神風連)

没年齢 : 41 (1835 – 1876)

①肥後勤王党

熊本藩士、飯田熊助の子として肥後熊本に生まれた太田黒伴雄は、幼少時に父を亡くし(1838)、その後、大野家の養子となる(1846)。太田黒は林桜園の原道館で神道を学び、河上彦斎、加屋霽堅らと共に尊王攘夷の思想を持つようになる。黒船来航時(1853)に江戸に居た太田黒は尊王攘夷思想を強め、宮部鼎蔵らの肥後勤王党に参加。しかし朝廷から熊本藩へ京都警護の要請のため肥後勤王党が上洛(1862)するも、太田黒は江戸に居たため上洛の機会を逃すことになる。

②神官へ

同志との上洛が果たせなかった太田黒は家督を義弟の大野昇雄に譲り廃嫡の身となる。その後、太田黒は横井小楠暗殺未遂事件(1863)に関与したとして投獄される。出獄後は新開大神宮に通い敬神に傾倒し、神官の太田黒伊勢守に養子となるよう依頼される。太田黒は林らの説得もあり太田黒家の養子となり神官となる(1869)。翌年(1870)、林に従い江戸で岩倉具視三条実美らと会見し、林の勧めにより政府に出仕を試みるも、既に西洋化に政策を転換していた新政府は太田黒の出仕を拒否。さらに同年、大田黒邸で療養していた林が死去すると太田黒は政府との関わりを失うこととなる。

③神風連の乱

太田黒は熊本錦山神社の神官である加屋と共に明治政府に不満を抱く志士たちを構成員とした敬神党を結成。敬神党は神道の思想が強く神風連と呼ばれるようになる。明治政府によって廃刀令が出される(1876)と太田黒は決起を決める。神風連は二隊に分かれ、別動隊は熊本鎮台司令官や熊本県令ら政府要人を襲撃、暗殺する。太田黒は加屋と共に本隊を率い熊本城の熊本鎮台を襲撃し砲兵営を制圧する。しかし翌朝、熊本鎮台准参謀の児玉源太郎率いる政府軍がが駆けつけ銃撃戦となると、副首領の加屋が銃撃を受けて戦死。首領の太田黒も銃撃され重傷を負うと、義弟の大野の介錯により自刃する。これにより乱は鎮圧されることになる(1876)。


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