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福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)

Category: 幕末志士

概要

所属  : 中津藩 適塾 江戸幕府

没年齢 : 66 (1835 – 1901)

①中津、長崎、大坂、江戸

中津藩士、福澤百助の次男として大坂で生まれた福沢諭吉は、翌年(1836)に父が死去したのを受け中津に帰藩し、漢学、一刀流、儒学を学ぶ。黒船来航(1853)後、福沢は兄、福沢三之助の勧めで蘭学を学ぶため長崎へ遊学。長崎では長崎奉行の役人で砲術家の山本物次郎に仕え、大村益次郎ら西洋派の志士と出会う。帰藩命令が出されると福沢は大坂の兄の下へ身を寄せ、緒方洪庵の適塾で学ぶ(1855)。翌年(1856)、兄が死去すると家督を継ぐも大坂に留まり勉学を続け、翌年(1857)に適塾の塾頭となる。藩から江戸在勤の命令が出ると福沢は江戸に出て蘭学塾「一小家塾」を開く(1858)。翌年(1859)、福沢は横浜に出るとオランダ語ではなく英語の重要性を目の当たりにし、英学も学ぶようになる。

②渡米、渡欧、幕臣、平民

万延元年遣米使節の派遣では、使節の護衛艦である咸臨丸の艦長、木村芥舟の従者として勝海舟、中浜万次郎らと共に渡米(1860)。帰国後、幕府に外国方として出仕する。文久遣欧使節の派遣では、寺島宗則と共に翻訳方として渡欧(1861)。西洋の制度を「西洋事情」にまとめ翌年帰国する(1862)。その後、福沢は正式に旗本に取り立てられる(1864)。長州藩との戦い(1866)に敗れた幕府はアメリカから軍艦を購入し、その受け取りのため遣米使節が派遣されると、福沢はこれに同行(1867)。しかし帰国後まもなく大政奉還により幕府は消滅。福沢は新政府への出仕を要請されるもこれを辞退する。

③教育者、思想家

翌年(1868)、帯刀をやめて平民となった福沢は一小家塾を慶応義塾と改め教育活動に専念する。一方、福沢は黒田清隆に面会し榎本武揚の助命を嘆願したり廃藩置県を断行(1871)した西郷隆盛を称賛するなど啓蒙思想家としても著名となる。さらに福沢は岩倉使節団から帰国した木戸孝允と面会し学制制定に関与(1873)。さらに岩崎弥太郎(1874)や大久保利通(1876)ら政府、経済界の要人とも面会を果たす。1880年には大隈重信伊藤博文井上馨の政府要人から公報新聞の発行を依頼されるも、明治十四年の政変(1881)で大隈が失脚すると公報新聞の計画が消滅。しかし福沢は時事新報として新聞を発刊する(1882)。福沢は時事新報で日清戦争(1894)を支援し戦費捻出のため一万円を募金。さらに渋沢栄一らと共に戦費募金組織「報国会」を組織する。脳出血のため死去(1901)。


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