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宮島誠一郎(みやじま せいいちろう)

Category: 幕末志士

概要

所属  : 米沢藩 明治政府

没年齢 : 73 (1838 – 1911)

①開明派の志士

米沢藩士、宮島吉利の長男として生まれた宮島誠一郎は、藩校の興譲館で学び、藩の砲術家、浅間厚斎に砲術を学ぶ(1852)。黒船が来航する(1853)と宮島は軍制改革に関わり、攘夷思想ではなく近代化を志すようになる。14代将軍、徳川家茂が上洛を促されると、米沢藩主の上杉斉憲が上洛に随伴し宮島も藩主に従い入京する。長州藩を中心に攘夷派が実権を握る京都においても、宮島は「公武一和」「攘夷不可」を藩主に上申。直後の八月十八日の政変で長州藩が京都を追われると、宮島は秋月悌次郎ら会津藩の首脳と交流を持ち(1863)、その後、宮島は会津、白河、仙台などの視察(1864)を経て江戸在勤となる。薩摩藩や会津藩と交流を持ち、藩の強化の必要性を感じた宮島は、斉憲の子、上杉茂憲を帰郷させる(1866)。

②奥羽越列藩同盟の締結と降伏

大政奉還(1867)後、米沢藩が旧幕府軍側に付くと米沢藩は新政府軍に要請され宮島は入京するも、既に会津征伐が決められており、宮島はこれを防ぐため会津藩の謝罪をもって降伏する計画を長州藩の広沢真臣と協議。その後、帰国する。新政府軍の世良修蔵により会津征伐が迫る中、仙台藩、米沢藩を中心に白石会議が開かれ、帰国した宮島はこれに参加。宮島は広沢との協議について東北諸藩に伝え、奥羽越列藩同盟として朝廷に会津征伐中止を訴える白石盟約書をまとめる。宮島は建白のため前島密の協力を受けて再度入京。山内容堂を通して岩倉具視に建白書が提出されるも、既に東北では開戦しており、宮島は帰国するも途中で米沢藩の降伏を知る。帰国した宮島は庄内藩の降伏に尽力。宮島は米沢藩が奥羽諸藩の罪をかぶると申し出て列藩同盟の降伏を推進する(1868)。

③明治維新後

戊辰戦争後は明治政府に出仕し(1870)、議官となって国会議院の設立案を提出するも江藤新平後藤象二郎らにより却下される。台湾出兵(1874)では、出兵反対の建白書を提出するも却下される。宮内省に入った宮島は岩倉から皇室典範作成の調査を依頼され(1879)、翌年「国憲編纂起原」として提出する(1880)。憲法制定のため伊藤博文がヨーロッパ視察を行うと宮島は送別宴に出席(1882)。宮島は帰国した伊藤に憲法制定の意見書を提出する(1883)。しかし伊藤は宮中の介入なく内閣主導での憲法制定を意図しており宮島の意見は却下される。国会が設立されると宮島は貴族院議員となる(1896)。宮島は膨大な日記や記録を残し死去する(1911)。


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