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河上彦斎(かわかみ げんさい)

Category: 幕末志士

概要

所属  : 熊本藩 肥後勤王党

没年齢 : 38 (1834 – 1872)

①肥後勤王党の幹部へ

隈本藩士、小森貞助の子として生まれた彦斎は、河上源兵衛の養子となり、藩主、細川斉護に茶坊主として取り立てられる。彦斎は剣術では居合を修行し、片手抜刀の達人となる。また、兵法では後に神風連を結成する太田黒伴雄や加屋霽堅と共に宮部鼎蔵に学び尊王攘夷の思想を持つようになる。宮部が京都御親兵のため肥後勤王党を連れて上京すると、彦斎は勤王党の幹部として宮部と共に京都に入る(1863)。

②人斬り彦斎

しかし八月十八日の政変が起きると攘夷派の長州藩は京都を追われ、彦斎は三条実美の警護として長州へ付き従う。長州で彦斎は木戸孝允らと交流を持つも、木戸や宮部が京都に潜伏すると新選組に池田屋で襲撃され、木戸は逃亡に成功するも宮部は落命(1864)。彦斎は敵討ちのため京都に再び入る。しかし彦斎は新選組ではなく佐幕開国派の重鎮、佐久間象山を白昼堂々と衝動的に斬殺する。これにより彦斎は人斬りとして恐れられるようになる。この直後の禁門の変、さらに第二次長州征伐(1866)では長州軍として参戦し戦功をあげる。

③尊王攘夷を貫く

長州藩が討幕の勢いをつけると、彦斎は熊本藩も討幕勢力に加えるべく熊本に戻るも、藩内は佐幕派が実権を握っており彦斎は投獄される。鳥羽伏見の戦いで新政府軍が勝利すると熊本藩は新政府に恭順。彦斎は釈放される(1868)。彦斎は尊王攘夷派であり、新政府が攘夷から開国に政策を転換するとこれらを非難すると豊後鶴崎に左遷される。さらに大村益次郎暗殺事件(1869)、広沢真臣暗殺事件(1871)、二卿事件(1871)に関与したとして捕縛される。江戸に送られた後、事件への関与が不明瞭のまま、新政府に対する反乱要因とみなされ処刑される。


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