menu

山本覚馬(やまもと かくま)

Category: 幕末志士

概要

所属  : 会津藩

没年齢 : 64 (1828 – 1892)

①会津から江戸、そして京都へ

会津藩士、山本権八の長男として生まれた覚馬は、藩校、日新館で学んだ後、江戸に遊学。佐久間象山の塾で勝海舟らと共に兵学を学ぶ。さらに蘭学や砲術も江戸で学び、会津に戻ると日新館の教授となる。藩主、松平容保が京都守護職として上洛すると、覚馬も大砲頭取として付き従い、京都で西洋式軍隊の調練を担当する。また、覚馬は洋学所を開いて在京の諸藩士に洋学を教える。

②砲術、失明、管見

禁門の変が勃発すると覚馬は砲兵隊を率いて戦い、薩摩藩の西郷隆盛や新選組の近藤勇ら各藩の実力者と親交を持つようになるも、この頃より眼病により失明状態となる。覚馬は長崎に出向し、ドイツ商人のレーマンからゲベール銃の購入を取り付ける。鳥羽伏見の戦い後も覚馬は京都に残り薩摩藩に捕らえられる。しかし西郷は覚馬の器量を評価しており丁重に扱われる。覚馬は幽閉時に新政府の在り方を論じた「管見」を西郷や小松帯刀を通して薩摩藩主、島津忠義に建白。翌年釈放される(1869)ことになる。

③京都での治政

その後、覚馬は京都府庁に出仕(1870)し、槇村正直の下で各学校の開設や鉄道の敷設などに尽力し京都の近代化に貢献する。覚馬は新島襄と出会い、襄の学校設立計画に協力。旧薩摩藩邸の敷地を提供して連名で私学開業願を提出する。覚馬の妹、八重は襄と結婚することになる。京都府顧問を退任後、覚馬は京都府会議員に選出され初代議長を務める。その後、キリスト教の洗礼を受け(1885)、襄が死去後は同志社臨時総長となり同志社の発展に貢献する。


< NEXT 岩崎弥太郎(いわさき やたろう)

PREV > 新島襄(にいじま じょう)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です