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井上馨(いのうえ かおる)

Category: 幕末志士

概要

所属  : 長州藩 御楯組 鴻城隊 明治政府

没年齢 : 79 (1836 – 1915)

①攘夷から開国へ

長州藩士の子として生まれた井上は藩校の明倫館で学び、藩主、毛利敬親の参勤に従って江戸に入る。江戸で江川英龍に蘭学を学び、毛利元徳に仕えて再度江戸を訪れると、高杉晋作久坂玄瑞伊藤博文ら長州藩の尊王攘夷思想の影響を受け、御楯組の一員としてイギリス公使館焼き討ちに参加する。しかしその後、井上はイギリス留学を嘆願。伊藤らと共に長州五傑として幕府の許可を得ず密航する。途中、上海でイギリスに占領された清国を見て攘夷から開国へと思想を変えることになる。約半年の留学後、下関戦争の報を聞いて帰国する。

②袖解橋の変から挙兵へ

第一次長州征伐が起こると井上は幕府への対応を決める会議で武力を保ったままの恭順を主張し、椋梨藤太ら俗論党が主張する徹底恭順と対立。会議後に井上は俗論党により襲撃され瀕死の重傷を負う。一命を取り留めるも俗論党により謹慎となるも、高杉が功山寺で挙兵すると鴻城隊を率いて挙兵に参加。挙兵が成功すると幕府は第二次長州征伐を行い、井上は芸州口の戦いに参陣。長州藩が幕府軍を破ると井上は広沢真臣と共に幕府の勝海舟と休戦協定を結ぶ。王政復古後は九州鎮撫総督となった澤宣嘉の参謀となり戊辰戦争では九州を抑える。

③伊藤内閣の重鎮として

新政府が発足すると、木戸孝允に取り立てられ大蔵省に入省。岩倉使節団の外遊中は留守政府の中核となるも予算削減を巡って江藤新平らと対立し、井上は渋沢栄一と連名で財政政策についての建議書を提出して辞職する。その後、伊藤の要請により政府に復帰した井上は、辞職していた木戸と板垣退助大久保利通と引き合わせて政府の方針を協議する大阪会議を実現する。その後も日朝修好条規締結や鹿鳴館建設など外交に尽力。伊藤内閣を支え続ける。


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