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有馬晴信(ありま はるのぶ)

Category: 戦国武将

概要

所属  : 有馬家

没年齢 : 45 (1567 – 1612)

①天正遣欧少年使節

肥前の大名、有馬義貞の子として生まれた晴信は、家督を継ぐと大友宗麟に従う。龍造寺隆信が勢力を拡大すると晴信は隆信に従属する。晴信は宗麟や叔父の大村純忠の影響を受けキリスト教に入信。日野江城下にキリスト教の学校であるセミナリヨを建て、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノらを育成。宗麟、純忠と共に天正遣欧少年使節を派遣する。さらに浦上を教会に寄進する。

②キリシタン大名として

晴信は隆信から離反すると隆信は島原に侵攻。晴信は島津義久に救援を依頼し島津家久率いる島津軍と共に沖田畷の戦いで隆信を打ち破る。豊臣秀吉が九州征伐を行うと秀吉に従属。第一次朝鮮出兵では小西行長の一番隊に属して渡航し第二次朝鮮出兵が終了するまで朝鮮で過ごす。関ヶ原の戦いでは東軍として子の有馬直純を行長の弟、小西行景が守る宇土城を攻めさせる。

③岡本大八事件

マカオで晴信の家臣が貿易を巡って騒動となりポルトガルの司令官アンドレ・ペソアによって鎮圧されると、晴信は長崎奉行の長谷川藤広と共に徳川家康に報復を訴え、長崎に寄港中のペソアの船を藤広の旧家臣で本多正純の家臣、岡本大八の監視の下に焼き討つ。しかしその後、晴信は藤広と対立するようになる。晴信は大八に賄賂を渡し旧領回復を依頼するも大八は晴信を欺く。投獄された大八は獄中で晴信が藤広の暗殺を企んでいたことを報告。大八は処刑となり晴信も切腹を命じられるもキリシタンのため処刑となる。


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