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三浦義村(みうら よしむら)

Category: 源平武将

概要

所属  : 幕府

没年齢 : 7? (116? – 1239)

①六十六人の連判状

三浦義澄の子として生まれた義村は、源頼朝が挙兵し鎌倉に入ると、父、義澄と共に頼朝に仕え平家追討戦、奥州合戦に参陣する。頼朝の死去後、結城朝光が二代将軍となった源頼家について否定的な発言をすると、梶原景時がこれを謀反として頼家に讒言。窮地となった朝光から相談を受けると、義村は反景時派の御家人六十六人から景時弾劾の連判状を作成し大江広元に提出する。結果、景時は失脚、滅亡することになる。

②変、乱、合戦の中で

その後、父、義澄が死去すると三浦家の当主となり北条義時と接近。比企能員の変では能員が暗殺された後、義時率いる比企家の追討軍に加わる。畠山重忠の乱では、重忠の子、畠山重保を討ち、その後、義時率いる重忠の追討軍に加わる。乱の終結後、重忠が無実であったことを知った義村は、稲毛重成と榛谷重朝を首謀者として謀殺する。和田合戦では、和田義盛と共に義時に対して挙兵することを起請するも、挙兵直前で義盛を裏切り義盛挙兵の旨を義時に伝え、その後義盛追討軍に加わり交戦する。

③義時の盟友として

頼家の子、公暁が三代将軍、源実朝を暗殺。その後、公暁が義村を頼ると、義村は公暁に従うと見せかけて追討の使者を出し公暁を討ち取る。承久の乱では、後鳥羽上皇側の中心人物で義村の弟、三浦胤義から味方に付くよう密書を受け取るも、義村はこれを義時に報告。義村は幕府軍を率いて京都に攻め上り胤義を打ち破る。義時死去後、伊賀氏の変に加担をしようとするも北条政子の説得により断念。その後も北条家に次ぐ権力者として四代将軍、藤原頼経に仕えて幕府を支える。


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