menu

畠山重忠(はたけやま しげただ)

Category: 源平武将

概要

所属  : 源家

没年齢 : 41 (1164 – 1205)

①義経の下で

平家に仕える畠山重能の子として武蔵で生まれた重忠は、源頼朝が挙兵すると平家軍として追討に出陣し、三浦義明、三浦義澄父子が籠城する衣笠城を攻め義明を討つ。しかしその後、頼朝が房総半島で勢力を拡大すると重忠は頼朝に従い、源義経の軍に属する。源義仲との宇治川の戦いでは、途中で馬を射られ徒歩となるも、同様に馬を失った家臣の大串重親を助けながら先陣を切って川を渡る。福原に陣を敷く平家との一ノ谷の戦いでは、義経が平家の陣に向けて背後の山から逆落としを行うと、重忠は馬を失わないよう馬を背負って急斜面を下る。

②頼朝の下で

平家滅亡後は頼朝の下で鎌倉幕府を支える役職に就く。重忠は部下の不祥事から梶原景時に謀反の疑いをもたれるも、自害を覚悟で一切謀反の気持ちがないと景時に告げ、頼朝の疑いを晴らす。奥州合戦では頼朝の軍は三方に分かれて北上し、重忠は頼朝本隊に従軍。阿津賀志山の戦いで先鋒として戦端を開き、さらに総攻撃の主力として活躍。重忠の家臣の重親が総大将の藤原国衡を討つ。捕虜となった由利維平を丁重にもてなすなど、重忠は優れた武勇と誠意ある人柄より坂東武士の鑑と称される。

③畠山重忠の乱

頼朝が死去すると、北条時政の策謀により梶原景時の変、比企能員の変が起こり頼朝の有力家臣が滅亡する。重忠はこれらに北条方として協力するも、重忠の領地、武蔵を巡って北条方と対立。重忠の子、畠山重保と時政の娘婿、平賀朝雅との口論が発端となり畠山父子は謀反の嫌疑をかけられる。重保が時政の命を受けた三浦義村に討たれると、重忠は自身が謀反軍として追討中と知らず騒動を確かめるため鎌倉に向かう。途中、二俣川で時政の追討軍と遭遇した重忠は、初めて追討されていることを知り寡兵で奮戦。しかし多勢に無勢となり戦死する。


< NEXT 伊藤忠清(いとう ただきよ)

PREV > 今井兼平(いまい かねひら)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)