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平維盛(たいらの これもり)

Category: 源平武将

概要

所属  : 平家

没年齢 : 25 (1159 – 1184)

①宮廷の貴公子

平清盛の長男である平重盛の長男として生まれた維盛は、祖父の清盛、父の重盛の下、昇進を重ねる。後白河法皇の祝賀会で維盛は「青海波」を舞い、その様子から桜梅少将と呼ばれる。また、九条兼実から容顔美麗と評されるなど、宮廷では光源氏の再来と称される。維盛の父、重盛は藤原成親の妹を妻としており、維盛もまた成親の娘を妻としていたため、鹿ケ谷の陰謀で成親が罪人として処刑されると重盛、維盛の立場も危うくなり、重盛が死去すると平家の棟梁は維盛ではなく、維盛の叔父にあたる平宗盛が引き継ぐことになる。

②平家軍の総大将として

東国で源頼朝が挙兵すると維盛は総大将として鎮圧に向かい富士川で対峙する。しかし兵力で不利な状況を見た伊藤忠清は撤退を主張し維盛は撤退を決断。しかしその夜、水鳥が一斉に羽ばたき、その羽音を源氏の奇襲と勘違いした兵たちが総崩れとなる。結果、維盛は撤退ではなく敗走となり富士川の戦いに大敗する。翌年、尾張、美濃で源行家が挙兵すると維盛は叔父の平重衡と共に再度鎮圧に向かい墨俣川の戦いで勝利する。

③離脱、出家、そして入水へ

木曽で源義仲が挙兵すると維盛は総大将として鎮圧に向かう。しかし維盛率いる平家軍は義仲の奇襲を受け倶利伽羅峠の戦いに大敗。結果、平家は京都から脱出することを余儀なくされる。維盛も都落ちを共にするも、その後、一ノ谷の戦いの前後で宗盛ら平家軍から離脱。高野山に入って出家し熊野三山の熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を参詣後、那智勝浦で捨身行である補陀落渡海に臨み入水を遂げる。


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