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平重衡(たいらの しげひら)

Category: 源平武将

概要

所属  : 平家

没年齢 : 28 (1157 – 1185)

①平家の繁栄

伊勢平氏の棟梁、平清盛の五男として生まれた重衡は、同母兄、平宗盛平知盛と共に昇進を重ねる。後白河法皇が鹿ケ谷の陰謀を起こすも、父、清盛は法皇を罪に問わず、法皇は院政を継続する。清盛の娘、盛子、続いて清盛の長男、平重盛が相次いで死去すると、法皇は二人の所領を取り上げる。これに反発した清盛は治承三年の政変を起こして法皇の院政を終わらせる。この時、重衡は使者として法皇に奏上する役目を務める。

②南都焼討

しかし後白河法皇の子、以仁王が各地の源氏に挙兵を促すと、源頼朝が挙兵。平維盛が鎮圧に向かうも富士川の戦いで頼朝に敗れると、美濃と近江でも源氏が挙兵。兄、知盛がこれを鎮圧するも続いて寺社勢力が挙兵する。重衡は清盛の命により寺社勢力の鎮圧に出兵。重衡はまず近江の園城寺の焼討を行い、続いて南都に入り興福寺と東大寺の焼討を行う。寺社勢力を鎮圧した重衡は墨俣川の戦いでも源行家を打ち破り、平家の司令官として戦功を挙げる。

③名将として

しかし維盛が木曽で挙兵した源義仲に倶利伽羅峠の戦いに敗北すると平家は京都から讃岐の屋島へ逃れる。重衡もこれに同行。その後、足利義清率いる義仲軍が備中水島まで迫るも、重衡は水島の戦いで義清を撃破。続いて室山の戦いでも行家を撃破し、棟梁の宗盛は福原まで陣を進める。しかし源範頼源義経率いる頼朝軍が福原に迫ると一ノ谷の戦いで大敗し、重衡は捕らえられて鎌倉の頼朝の元へ送られる。頼朝は重衡の器量に惹かれ厚遇するも、南都の僧兵の要求により重衡は南都へ送られ処刑される。


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