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平清盛(たいらの きよもり)

Category: 源平武将

概要

所属  : 平家

没年齢 : 63 (1118 – 1181)

①保元の乱、平治の乱

伊勢平氏の棟梁、平忠盛の長男として京都に生まれた清盛は、父、忠盛と共に瀬戸内海の制海権を押さえて西国に勢力を拡大する。忠盛が死去すると平氏の棟梁となり、後白河天皇、藤原忠通と崇徳上皇、藤原頼長が争った保元の乱では、源氏の棟梁、源義朝と共に後白河側に付いて勝利をもたらす。続いて起きた後白河上皇、信西と二条天皇、藤原信頼が争った平治の乱では、再び後白河側に付き、二条側に付いた義朝を打ち破る。清盛は義朝の子、源頼朝を助命し伊豆への流罪とする。

②初の武士政権

平治の乱で源氏に勝利した清盛は、後白河上皇、二条天皇、六条天皇を補佐して朝廷での権力を持つようになり、ついに太政大臣の位に上り詰める。その後、清盛は病となり出家する。病から回復すると清盛が修築した大輪田泊に隣接する福原を拠点とし、厳島神社の社殿を建築して日宋貿易を盛んに行う。清盛は娘の徳子を高倉天皇に入内させ権力を強めると次第に後白河法皇と対立。清盛は鹿ケ谷の陰謀を起こすことによって後白河法皇の権力を弱める。しかしその後も後白河法皇が独断で政治を行うと、清盛は法皇を幽閉して院政を終わらせる。

③福原京遷都と源氏の挙兵

安徳天皇が即位すると清盛は外祖父として政治の実権を握る。清盛は安徳天皇の行幸を行い福原京に遷都する。しかし頼朝が挙兵。清盛は孫の平維盛を総大将に軍を派遣するも維盛は富士川の戦いで頼朝に敗れ、清盛はわずか半年程で平安京に還都する。興福寺が源氏の挙兵に呼応すると、清盛は五男の平重衡を総大将にして南都焼討を行わせる。さらに三男の平宗盛を総大将にして頼朝の追討を決定する。しかし突然の熱病によって倒れた清盛は、宗盛に後を託して死去する。


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